古代中国の殷(いん)三朝(紀元前1400年〜1300年)のころ江南省安陽付近からの殷虚から、亀の甲羅や獣骨の破片が数多く発見され、それらに文字が刻まれ「甲骨文」となっています。 それは、殷の皇帝が、占い師に依頼し占わせた結果を亀の甲羅・獣骨に刻み込んだものです。 この甲骨文は「五行説=木・火・土・金・水」と深い関係がある「十干」=「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」と十二進法の周期をあらわす「十二支」=「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥・」との組み合わせでできた「六十干支」を使って、「年」や「月」・「日」・「時」を表しています。 この「十干」の根本となる十進法は太古の人が物を数えるのに左右の手五本ずつの指を使ったことが起こりとなります。 「人間の手の指が十本である限り、十干鑑法は不滅である」とも言われています。やはり人間というものは尊いのです。 | ||||
1100年代、南宋の徐居易(徐子平)の書が文献考証的に四柱推命の最古となるため徐子平が命学の祖といわれている。 (一説には、命理の始まりは、戦国時代(紀元前400年〜200年頃)の蘭台御史 (天子の秘書官)の珞?子であるとされている。 続いて1200年代に徐大升ににより「えんかいしへい」という書が著され1368年ごろ、明の軍師・政治家であった劉伯温が滴天髄(てきてんずい)という書を著したとされている。 |
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五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の生成とその順序が確立した。
1,太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ 2,次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた 3,さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ 4,残った陰気が西に移動して金行を生じた 5,そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。 | ||||